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過渡期の意識化


かつて「デ・スティル」と同義だったダッチ・モダニズムは、ここ20〜30年のうちに大きくその裾野をひろげ、逆にスティル(様式)とかネオ・プラスティシズム(新造形主義)などの一般名辞でくくる以外はないほどまでに多士済々だったことが判明した。同様にレム・コールハースが主軸となって展開中の建築動向も、「スーパーモダン」といういささかイージーなネーミングをもって概括する他はないほど数多くの作家と傾向がひしめきあっている。最近出版された『The Artificial Landscape』という、この間の新進作家を紹介する出版物(巻末の書評欄を参照)では66の事務所が取り上げられ、そのほとんどがグループだから今後とも分離独立が予想される。そうすると20世紀の初期と後期に到来したオランダ建築の黄金期を、モダニズムのpresentationとrepresentationと読んだところで問題点は一向に収束しないことが予想されるが、歴史論的なアプローチとしてそれが最も有力である以上、やはり思わぬ形での両者のつながりに期待をかけて探りを入れてみるべきだろう。


サンセット・エフェクト

例えばイギリスの批評家、ピーター・ブキャナンは今日のオランダ建築の隆盛に対してマクルーハン的な意味合いをこめて「モダニズムの落日効果サンセット・エフェクト」を見ようとしたのだが、コールハースは(当然ながら)モダニズムの批判的再構成に積極的な意義を見出そうとする。従ってブキャナンの物言いはコールハースにとって「侮辱」に近いものと受け取られる。私としてはコールハースの立場により近いが、その理由はモダニズムのもつ規定性からオランダ現代作家が比較的自由でいるからで、というのも彼らがモダニズムの理念と言語をすでに分離抽出しており(むしろ古典的モダニズムの言語能力に依拠して)、いわば「素材」として使いこなしている。ただしそれはダッチ・モダニズムについてであり、コルビュジエやミースに対しては虚勢を張ったようなアイロニカルな態度がつきまとう。これらについては言語、文法そして意味(イデオロギー)が全体性を保持して容易に脱構築されることはない。

問題を抱えつつも彼らが積極的攻勢に出ることができた裏には、戦後オランダの社会経済体制が比較的無難に運営されてきた事実と無縁ではあるまい。インフラストラクチャーの構築が進捗するとともに、中間層のためのハウジング供給が政策的に実行された。社会機構のコンピュータ化が早期に推進され、ポリグロット(数カ国語に通じた人)の比率が高いためにEC統合の恩恵も満喫できた。それによってモダニズムを懐古的にリフレインするような余地は封じられ、妙な言い方になるが、ポストモダン的歴史操作の一環としてモダニズムの言語を換骨奪胎するような手法までもレパートリーに組み込むことができた。モダニズムの尻尾を今なお引きずりながら、ネオモダンを仕方なく展開しているようなどこかの国とは本質的に違っている。こうして勢いづいた彼らは、コールハースが主導する「サーフィン」の超絶技巧を手本にして、見よう見まねで時流の波に乗るすべを習得した。


ダッチ・モダニズムの資財帳<

しかしそれが可能だった真の理由は、戦後の好景気の持続とかコールハースの異能ぶりよりも、かつてダッチ・モダニズムを担った多彩なメンバーが繰り広げた探究の質にこそ求められる。そしてオランダの近代がなぜ充実した自前の構築をなし得たのかと問うてみるなら、ベルラーヘの業績の再検討からさらに遡って、17世紀を頂点とする世界市場の一時的制覇、そしてそれを背景とする視覚文化の隆盛を想起する必要が生じる。そして近年そう言われているところによれば、イタリア絵画におけるデカルト(くしくもオランダに長く滞在していた)的遠近法とは一線を画す、「描写術デスクライビング」とも称される独特のヴィジュアリティ[その論者は地図のグリッド(プトレマイオスのグリッド)になぞらえている]注1に結び付いている。それが「宗教改革派」の多いこの国の空間認識にいかなる影響を及ぼしたのか一は確かに興味深い設問ではある。そう言えば、オランダの近代以降の建物でのヒエラルキーの感じられない闊達なコンポジションに接していると、ヨーロッパ本流で発達した中心性の強い空間構造とは異なる自由度の高さを実感する。

その「自由度」を、身辺に強力な古典建築がなかったから一と説明したのでは身も蓋もないが、これは事実である。そしてそうであるが故に、また干拓地の上に建つがために、オランダの建築は当初から「情報的」でモビリティが高く、ゲニウス・ロキ的な場所との密着度は望むべくもなかった。ダッチ・モダニズムがアートや家具との結びつきを深めた裏には、下部構造の欠落を補おうとする意欲が働いていたかも知れず、逆に現今ではランドスケーピングと一体化して辻褄合わせしようとする傾向もみられる。課題を等価に設定して、その関係的な解き方を楽しむような行き方は今日的と言えるが、本源的な問題性に抵触しないうらみもまた認められる。アートと建築、アーバニズムをランドスケープを軸に(デザインの名のもと)統合する作戦は、この間失敗に終わることが証明された。フレキシブルであることは流通力の高さを保証するが、定着性は弱く何となくフラジャイルなのだ。


サナトリウムに死す

ここで具体例をあげて「情報性」と「自由度」(両者は別のものではない)を確認しておこう。ビィボェト(ベイフット)とパートナーシップを組んだヤン・ダイカル(1890〜1935)はデルフト工科大学での指導者(H.Evers)から「建築の新時代」の到来を懇々と説かれる。最初期にはベルラーヘ/アムステルダム派寄りのイメージが見られるが、すぐにF.L.ライトからの顕著な影響にとって換わられる。しかし彼の光、空気、衛生を首位に考えるアプローチは、ガラスと鉄、そしてコンクリート(今やそれは白色に塗られる)の建物へと急速に変貌を遂げる。1923年から26年にかけて、彼らは鉄筋コンクリートの建造システム(T型梁を使う)を特許出願する。そして代表作になったゾンネストラール(結核病患者のための複合療養施設)が来るが、そこにケネス・フランプトンはB.フラーのダイマキシオン精神の反響を嗅ぎ取っている。余談になるが、一連の施設は不注意な増改築が繰り返され、部分的に荒廃していたが、近年この施設の重要度(建築の観点のみならず、近代初期の労働者の福利厚生史の上での)が再認識され、事態は改善されている。とくにコンプレックスの白眉といえる「従業員の家」(18人の看護婦のためのホステル)図1は公的機関、民間の有識者、大学教官、学生組織(Stylos)が協力して自力復元された。注2こうした共働がまんまと成功するところを見ると、今やこの国での合意形成は方法論のレベルに達している。

1927年にはハーグで優秀な構造技師、ヴィーベンハと共働して<ニルヴァーナ>という集合住宅を設計した。そこでの柱梁構造の分解組立図に接する者が、ヘルマン・ヘルツベルハーの初期作品を思い浮かべないのはむしろ困難である。それに続くオープンエア・スクールで独自の境地に達した彼は、早すぎた晩年の作品(シネアック、1933)でロシア構成主義からの影響を垣間見せる一といった具合なのだ。また1932年から35年にかけて、“デ・アフト・エン・オプボウ”誌の編集長として機能主義の論陣を張ったことも特筆すべきだろう。ここからは、巨匠的な身振りで原理原則を突き進むよりも、時代の局面に敏感に反応して互いに競い合うような「媒介性」が認められ、それは今日のオランダ建築界においても基本的に変わっていない。その文脈で、ビィボェトが「ガラスの家」でP.シャローを助力したフットワークの軽さも納得がいくし、ダイカルと建築観を共有していたM.スタムが、ABC構成主義(H.マイヤーやH.シュミットなどスイス勢が中心)のトリックスターとして決定的な役割を演じた事績も改めて思い起こされる。


MovementではなくMove

ただ今日の情報資本主義のもとでは、その「情報インフラ」が一人歩きしている感があるのは否めない。コンピュータを使ったシミュレーション主義がそれにまた拍車をかけている。例えばUN Studio(ファン・ベルケルとC.ボス)が繰り広げるヴァーチャル空間は、虚と実の区別が曖昧になる地点にまで達している。注3彼らのイメージのもつスピード感とスリリングなシークエンス展開は他の作家に代え難い魅力があるが、空間/時間のイマジネーションが人間を置き去りにしている。それで一向に構わないではないか一という立場もあるが、この「情報快楽主義」に疎外感を抱く人も多いのではないか。つまり情報そのものの質とか役割(何のためのものなのか)を問わないままに、その連続的な昂進に徹するという態度は、それはそれでまた新たな問題をはらむのである。つまり「情報スペクタクル」の魔手が背後から忍び寄り、増幅編集されて消費され、結局のところ後には何も残らないかも知れない。

30年代の後半は、ダイカルやファン・デル・フルーフト(ファン・ネリ工場の共同設計者)が相次いで早世したことも手伝って、伝統主義と機能主義の単純な二極分解に終始してしまった。前述したように、オランダの建築的「伝統」は根の深いものではなかったし、素朴機能主義が時代を牽引できる状況にはもはやなかった。相変わらず舌鋒鋭いスタムは間歇的にクレームを発してはいたが、祖国を「見放す」形でプロレタリアート的構築に手を染めた一実際にはシベリアで流刑者まがいの処遇を受けた一出戻り者の発言に耳をかすものは少なかった。彼の左翼イデオロギーは筋金入りだったが、心中の挫折感はそれだけ深く彼のプライドを蝕んだに違いない。今や左翼思想と結合できない機能合理主義、それに色褪せた理念的美学論としか結ばれないアヴァンギャルディズムがダッチ・モダニズムの終息を告げていた。それに追い打ちをかけるような経済状況の悪化と戦争への足音は、建築表現をめぐる議論を緊急度の低い位置に追いやった。折しもモダニズムの代表的作家、J.J.P.アウトがBIMビル(1938〜42、現在のシェル本社ビル)で急旋回を遂げた「事件」もまた、決定的に変化したシチュエーションを思い知らせた。


コブラ・ダンス

戦時中にロッテルダムを始めとするオランダ都市がこうむったダメージは甚大だった。戦後復興が叫ばれる中で早くも46年に“Forum”誌が創刊され、伝統主義と機能主義の持ち越された議論が互いに譲歩する形で再開され、それは戦後に幅を利かせた中庸的ヒューマニズムで双方が調停された事情を写し出している。経済が復興を遂げると共に、和らげられたモダニズムが繁栄し、ファン・デン・ブルーク&バケマに代表されるような(人間主義の)メガストラクチュアが百貨店やショッピングセンターという形で新しい都市生活を表現した。そんな中、1951年にバケマが兵器工場を設計したことをめぐって、ファン・アイクがそれに異論をさしはさんだ。両者は共にCIAMのオランダ代表を務めていたが、技術の優位を承認する発展主義的な前者と、フィールドワークをつうじた人間の初源的要求から出発しようとする後者との開きははた目にも歴然としていた。それでも両者は共同の活動を展開することを止めなかった。若い頃のファン・アイクはArt Brut(アール・ブリュット:粗野な芸術の意で、建築におけるブルータリズムのネーミングはこれに由来するかも知れない)を標榜するコブラ・グループと同一歩調を取った注4こともあり、有機的な環境の創出を求めていた。従って CIAMの内部でも「合理主義偏重」の批判勢力注5として論陣を張り、チームXの結成にも大きな役割を果たした。そしてこの動きにはバケマも参加している。結局こうした活動が引き金になって、CIAMは活動停止に追い込まれる。ファン・アイクは50年代の後半を費やしてアムステルダムに世評の高い孤児院図2を設計し、自身の考え(身体性に結びついたマトリックス空間学とも言うべきもの)を具現化したが、こうした方向性は「オランダ構造主義」として世に知られることとなった。

この二人にヘルツベルハー(ファン・アイクの弟分のような存在)らを加えた錚々たる顔ぶれが“Forum”誌のエディターに就任したのは1959年のことだった。その最初の号は「The story of another idea」と銘打たれ、その内容は人間的感情の発露と共振する物的環境の構築に向けられ、それは国際様式からの「分離」の試みに他ならなかった。CIAMの基本的な考えや体質が手厳しく批判され、とくにオランダの都市計画のイニシャティブを握っていたファン・エステレンの手法にも疑問符が投げ掛けられた。つまり身銭を切って初期モダニズムを推敲した先人に学んだ彼らは、戦後世界を席巻した国際様式の欠落点に気づいていた。この点でファン・アイクが果たした役割は大きかったが、その裏にはコブラ時代からの友人である彫刻家のコンスタント(シチュアシオニストのオランダ勢を代表するメンバーで「ニューバビロン」と呼ばれる影響力の大きいプロジェクトを制作した)の活動が多くの示唆を与えた。

ファン・アイクとコンスタントは1947年に始めて出会ったが、コンスタントが建築に転進する際にアイクは先導役を果たした。コンスタントを定期的に「デ・アフト」の会合に連れていき主要なメンバーに引き合わせたほか、52年にはステデリク美術館で開かれた「人間と住居」と題する展示会で「色彩空間」を共同製作した。これは現代的な室内空間を提示しようとする試みで、コンスタントが描いた小型のカンバス画を壁の広がりに拡大して空間化するものだった。その翌年に出版された“Forum”誌にそこでの様子が大々的に紹介されている。1957年にイタリア北部の小都市アルバで旗揚げしたインターナショナル・シチュアシオニスト(SI)はデンマーク人の画家、アスガー・ヨルン(コブラの有力作家)が率いるイマジニスト・バウハウス(マックス・ビルの新バウハウス一ウルム造形大学に対抗していた)と、ギー・ドゥボールが主導する国際レトリストなどが合併して成立した。後者が構想していた統一的アーバニズムを発展させて造形化したのが、コンスタントのライフワークとなった「ニューバビロン」計画だった。これはモダニズムの都市計画を性格づける生産主義モデルを清算し、「操作される日常生活」を拒否して遊戯とレジャーに重点をシフトするノマド的なユートピア都市の提案だった。皮肉なことに、シチュアシオニスト都市とは原理的に「不定形」であるとする主流派(ドゥボール)注6からの批判にあい、またSIが政治的ラジカリズムに傾いたこともあって、60年にコンスタントはSIを脱退することになる。


状況の構築主義

それでもSIのメンバーは「心理地理学」と称して都市の周縁を「漂流」し、その隠された含意を掘り起こした。この内面化されたマッピングによって、「都市の欲望」が社会生活に浸透するメカニズムを捉えることに成功した。こうして権力や商業資本が「スペクタクル」を巧妙に演出している実態が暴露されされたのだが、コールハースはこの手法をエスカレートさせて、メトロポリスの虜(Office for Metropolitan Architecture)を自己演出することで、S/M的にアーバニズムの夢と秘密を描出した。そしてオランダの50年代末から60年代にかけての建築動向を扱った出版物には、コンスタントの一連のプロジェクトが必ずといってよいほど掲載され、ひときわ異彩を放っている(これは10年前では考えられなかった)。発想やイメージが同時代の事例と全く異なるプロジェクトとして、その次に70年代末のOMA初期の(やはりユートピア的な)計画案が来る。その一方で(既存の)都市の文脈に介入し、強力な変換を敢行するという意味でコールハースの発想は、むしろキャンディリス一バケマ流の方法を踏襲していると言える。つまりオランダの同時代作家の隆盛は、その立ち上がりの時期に、ダッチ・モダニズムの成果のみならず、その後の自国での展開までも踏まえており、また逆に言えば、そうした示唆的な探究が「過渡期」においても厳然と存在していたことが判明する。

SIは二人の思想家(歴史家のヨハン・ホイジンガと哲学者のアンリ・ルフェーヴル)から多大な影響をこうむっている。ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)を1938年に出版し、「人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した」とする。SIが「遊戯」という概念を思考の中心に据えるのは、マルクスの「労働」や「生産」一ホモ・ファーベル(作る人)一というキータームを「遊戯」や「余暇(消費)」なる対概念でフォローアップするためである。その過程で援用されたのがルフェーヴルの『日常生活批判』の哲学だが、これはむろん権力的操作が浸透した「日常生活」を批判的に解体して、自己責任にもとずく「本来の日常」を奪回するという意味である。またホイジンガは『ホモ・ルーデンス』に先だって「文化における遊びと真面目の限界について」(1933,傍点筆者)と題する講演をおこなう。本来は生真面目なこの国のインテリ層が遊びの効用(プレイフルな構築)に目覚めたとき、モダニズムの規制力の大部分が失効した。

ファン・アイクの仕事が内容的に紹介されたのはごく最近になってからで、またコンスタントのライフワーク図3にいたっては制作のピークから30年以上たって始めて、目障りではあるが欠くことのできない建築シーンとして登録された。そしてその時期の符合は、現今の「スーパーダッチ」建築の繁栄が、不分明だった過渡期を逆照射した結果である。アイクとコンスタント、それにバケマが同時代を盟友(と同時に論争の相手)として過ごしながら、全く別のテーマと表現に取り組んだことにも注目すべきだろう。同様に現代の作家たちも、例えばウィル・アレッツやノイトリングスに見られるように、それぞれ固有の言語を操ることができる。少し時代がずれているが、ボッスとブリューゲル、ゴッホとモンドリアンなどは、互いに全く異なる資質を持ち正反対のアプローチをしながらも、観察の鋭さと自己意識の深化という点では共通していたことが想起されよう。


巨匠というお荷物

ドイツ系の大物モダニスト(ミース、グロピウス)はナチスに追われてアメリカに渡り路線を修正して強大化した。コルビュジエも戦後、不死鳥のように復活して圧倒的な影響力を保持した。これらに比してもともと手薄ではなかったダッチ・モダニズム勢の中から、巨匠と呼ばれる作家が戦後に育たなかったのは不思議なくらいだ。ドゥースブルフは理論家で早死にしたし、オウトは早々と転向を遂げた。リートフェルトは戦後も質の高い建築を設計したが、職人的気質で発展家ではなかった。ダイカーの短命も惜しまれるが、スタムの挫折がモダニティの発展的な再解釈を阻んでしまった。それでも戦後までモダニズムの強い影響が持ち越されなかったからこそ、今日のオランダ建築の隆盛があるのではないか。イデオロギーの枠組みを変化させると共に、各時代にそれぞれの競い合いのルールを組み替えてきた一例えばロッテルダムの都市センター再建は人間的なアーバニズムを模索する試みと言える一ところに、本源的エネルギーの蓄積が進んだ最大の要因が認められる。戦後のオランダ建築界は、いわば戦前のモダニズム主導の展開を肯定的/ 否定的に二重露光していた。この間の事情は復興の後、ただちにモダニズムの疎外態を全面展開したわが国とは根本的に違っていた。

この文脈で、戦争前後の日本のモダニスト建築について一瞥しておきたい。先進国での文化動向が間断なく波及するそこでは、確かに一定の水準に達した近代的作品が実現していた。しかし常に問題となるのだが、社会構造の近代化の立ち後れが目立ち、一部のインテリ層以外の思考様式が旧弊のまま先進的動向だけが移植される図式からは抜けられない。権力機構の文化イデオロギーも同様だから、例えばイタリアで見られたようなモダニストと歴史主義者の緊迫した競い合いも成立しない。表現を支える論理構造が中途半端だからストックが利かず、戦後には「何事もなかったように」新しい季節に見合った種がばらまかれる。いかんせん土壌は同じだからやがて咲き誇るのは、大手組織事務所の薄められた「国際様式」ということになる。それがまたなかなか手慣れているだけに、抜本的な捉え返しにはつながらない。「外部」に議論が開かれないから、幅広い分析や問題提起が共有され得ない。モダニティの実体が欠落したまま「近代建築」が不自然な形で根付いてしまった。むろんオランダではそんな状況は見られず、脱近代を媒介する作家が予想されたように出現する。

ここでM.C.エッシャー(1898〜1983)のグラフィック作品に言及することは、適当であるばかりか必要ですらある。というのも、彼こそリーマン幾何学を自由に再解釈して、ヴァーチャル空間の万華鏡世界を始めてヴィジョンに先取りしたのだから。しかも彼の興味は単に空間のパラドックスに向けられたのみならず、時間(運動)とも連動していた。エッシャーの描く不可能な都市には、必ずその不可能さを糧に生きる住民の姿が目撃される。彼は若い頃、ハーレムの建築工芸学校に通った(1919〜22)のだが、不思議空間の超常知覚を計画的に描いている。幾何学(とくにプラトン立体の類い)やねじれたスケルトン構造に対する強い執着心は、全くの同時代人であるB.フラー(1895〜1983)の探究と手を携えて、非ユークリッド空間の創成に道を開いた。彼が描こうとした「不可能なシーン」とは例えば次のごとくである。交差点の四隅に40階建てのビルが4本たっている。貴方はその内の一つの20階から底部(交差点)を眺めて目のくらむ思いにとらわれ、今度は頂上を見上げて同じく眩惑する。エッシャーはこの両方の知覚を一枚の紙に描こうとする。図4そして<メビウスの輪>や<メタモルフォーズ>は彼の作品に頻出するテーマである。してみると彼の興味は、多次元空間というより「次元の置き換え」にあり、コルビュジエの「ドミノ・プラン」をなぎ倒そうとする最近のMVRDVの「ドミノ崩し」のルーツはここにも求められる。


ランドスケープからデータスケープへ

周知のようにオランダの「自然」の大部分は、人工的に作り出された。従ってランドスケープとアーキテクチュアは対立概念ではなく、内と外とか素材の差異でしかない。またイギリスやフランスほど根深い庭園の伝統をもたないから、近代的手法を適用するのに何の障害もなかった。ところがモダニズムの時代をつうじて、造園は比較的等閑視されてきた。過剰な意味を排除しようとする運動にとって、寓意の塊のような(そしてブルジョア的洗練を想起させる)それは、かなり苦手なジャンルと言えた。それはグリーン一般として空間を引き立たせてくれれば、それで事足りた。しかし「富裕な社会」が実現された今日、それは対等のパートナーとして連続性を保持するにいたり、West 8でのように両方をパラレルに展開する事務所が出現してもおかしくはない。注7そしてMVRDVの「ハノーヴァー万博オランダ館」にあっては、ランドスケープが都市に必要な情報データの一部として、ビルの内部に取り込まれる。もはや生物学的な理由(サバイバル可能な都市環境)によって、緑は計上され布置されるのである。

MVRDVは1998年から翌年にかけてハーグでメタシティ/データタウンというビデオ・インスタレーションを開催し、同名のペーパーバック(010 Publishers)を出版した。これは現行のグローバル化を突き進んだ現代都市の近未来がどのような局面に立ち至るか、その際の環境データをシミュレートして、いかなる再配分(人工の、緑地の、廃棄物の)があり得るのかを超文脈的に考察したものだった。そこではアーバニズム、ランドスケープ、アーキテクチュアが一体的にとらえられ、ユートピアとディストピアが隣り合わせになった形で表現されている。美術批評の分野でも、全く別のロジックをたどって「フォームレス」への傾斜が語られた注8が、ここでもまた予感としてそれが提出されている。つまり形とか技術は多くの選択肢が考えられるが、決定的に重要なのは、全体としてのリミットのなかでいかなる資源と人間生活のバランスを図るかである。私がこれに注目するのは、建築家集団が簡単明瞭にデータ処理を遂行して具体的に問題提起しているからである。そしてこれはロッテルダムのオプボウ・グループが実施した住戸の規則的配列を踏襲していると言えなくもないし、スーパースタジオの仕事が残した教訓も射程圏に収めている。この逆接的だが戦略的な関係構築、過去の事例の批判的再構一そのためには先行する取り組みが揺るぎないものでなくてはならず、その点でわが国では格別の困難がつきまとうことを承認せねばなるまい一が今まさに求められている。


前衛とキッチュの同時ファック

レム・コールハースのPCM(偏執症的批判法)は世界的に奏効した。この人がまだ無名時代に出版した『錯乱のニューヨーク』がダッチ勢の世界進出の狼煙となった。また彼の組織したOMAは後続部隊のインキュベーター(孵化装置)となる。彼が最初から建築を勉強した人ではなかった点にも注意しよう。映画のシナリオライターを始めとする諸分野に知見を持ち、「異種媒介性」を発揮することで手詰まりの建築界に風穴を開けた。彼の「モダニズム」との距離のとりかたは出色である。先ず事前調査が行き届いており的確な引用と言及が可能なほか、攻撃と茶化しが巧妙で急所をはずさない(コルブのニューヨーク上陸作戦のくだりを想起されたい)。時に名作をパロディ化してみせるが、単に外形の操作に止まることなく、意味上のリニューアルを敢行するので説得性が高い(A.ヴィドラーがフランス国立図書館のエントリーに、モダニストの「透明性」の概念への今日的注釈を認めるように)。彼にとってモダニズムは上手くあしらっておけば実質的利益が確保される「お得意さん」なのだ。ただし旧コロニアル(インドネシア)で育ち各国を渡り歩いた彼の場合、操作対象は世界的にポピュラーな作品や人口に膾炙したドグマに限定され、基本的にローカルなものは除外される。これはポストコロニアル時代を逆手に取ったPCMと称されよう。

コールハースの戦略(PCM)を具体的な作品をとおして考えてみる。彼がパリ近郊で80年代の後半に建てた住宅(Villa Dall'Ava)である。広くはない敷地に3つの空間単位が接続しているが、瞬間的に気付くのは(とくに建築プロパーの人)、これがコルブのサヴォア邸のパロディであることだ。見慣れた上階のヴォリュームがリボンウィンドもろとも傍若無人なコンクリートの壁で、前後2つの空間単位に分断されている。中途半端に切りつめられてしまったピロティを支えるのは、エレガントな白色コラムではなくランダムに塗られ投げやりな角度で挿入された金属パイプに過ぎない。屋上に存在した「ヒロイックな身振りの」彫塑的エレメントは、オレンジ色のネットフェンスにまで磊落している。生真面目なコルビジャンなら怒りを覚えるだろうが、かなりのファンである筆者でも不思議に腹立たしさはなく、気の利いたことをするヤツと納得してしまう。考えてみると、コルブはパリのビジネスマンのために田園に建つ週末住宅を提供しようとした。そしてその目論見は諸々の事情のために上手くいかなかったが、三十数年後にしたたかな感性をもつオランダ人の手によって、それは郊外から近郊へと召還され、そのプロセスで「ロボトミー手術」を執刀しながらも、愛らしい外見と変わり果てた姿を二重写しにして再デビューを果たした。

ポアッシーで観照の対象とされた「ウェルギリウス風の」眺めは、今や都市化の波にさらされて何の変哲もないものとなり、この度は当のパリのナイトスケープを屋上のプールサイド越しに遠望する趣向に置き換えられている。そして重要だと思われるなは、別段こういったアナロジーを作動させなくとも、今日的な素材と軽やかな色彩、愛想の良い造形は誰にでもアピールできる性格を与えられている。つまり彼の強味は、知的に洗練された解読にも耐えるし、単純に感覚的な印象としてもイケてるところにある。正統的な近代とバナルな日常が両掛かりになっているところに、知識層と一般大衆の区別が容易につかなくなった時代の戦術を窺い知ることができる。彼は高度資本主義を桎梏ととらえるのではなく、巨大ゲームセンターと見なしている。肥大化した体制のもとでは、知性も愚昧もカードの裏表でしかない。今のところ彼の唯一の弱味は、ゲームオーバーがないと仮定しているところだけだ。



注1Svetlana Alpers,『The Art of Describing:Dutch Art in the Seventeenth Century』(Univ.of Chicago Press,1983)

注2『A Space of Their Own』(1966,010 Publishers) 禁欲的なモダニズムではなく、設計する喜びを感じさせる作品となっている。

注3Ben van Berkel & Caroline Bos,『Move』(Architectura & Natura,1999)

注41949年にステデリク美術館で開かれた最も重要なコブラのグループショウで展示計画を担当したのはファン・アイクである。

注5Aldo van Eyck,“Statement against Rationalism,”Paper read aCIAM,Bridgwater,1947,reprinted in Siegfried Giedion,A Decade of Modern Architecture(Zurich:Girsberger,1954),pp.43-44.

注6ドゥボールによれば(シチュアシオニストの)都市計画は「都市計画批判としてしかあり得ない」としている。

注7Adriaan Geuze,『West 8』(Skira,2000)

注8Yve-Alain Bois & Rosalind E.Krauss,『Formless:A User's Guide』(MIT Press,1997)